億ションを足早に出ると、琢磨は翔に電話をかけた。『もしもし……』5回目のコールで翔が電話に応じた。「おい、翔。お前まだ病院にいるんだよな?」『あ、ああ。医者の話では今日は全身麻酔で子宮の中を綺麗にする処置をしたそうだから、付き添いをするように言われているんだ。お前は今何処にいるんだ? ひょっとして外にいるのか?』「ああ。そうだ。気の毒な朱莉さんの所へ行っていた所だ。翔、人のことを言えないが……お前は最低な男だよ。明日香ちゃんに対する優しさをほんの少しでも朱莉さんに分けてやろうとは思えないのか? いいか? 朱莉さんを傷付けたのはお前だけど……彼女を慰められるのも……お前しかいないんだよ!」歩きながら琢磨は吐き捨てるように言った。『琢磨。お前……』「いいか? 朱莉さんは今回の事で契約婚を打ち切られるのじゃ無いかって心配していたぞ? 彼女はまだお前との契約婚を望んでいる。もしお前が朱莉さんとの契約婚を打ち切ろうと考えているなら俺が許さない。絶対に阻止するからな!?」すると電話越しから狼狽えた声が聞こえた。『ま、まさかそんな事考えるはず無いだろう? 俺は今……すごく後悔してる。つい、頭に血が上ってあんな酷いことを朱莉さんに言ってしまうなんて……。もう何回も俺は朱莉さんを傷付けてしまった。我ながら最低な男だと思っている。だけど……明日香が絡んでくると俺は……!』「それはお前が明日香ちゃんに負い目があるからだろう? お前……本当に明日香ちゃんのことが好きなのか? 本当は罪滅ぼしの為に愛そうとしているだけなんじゃないのか?」『! ま、まさか……俺は本当に明日香の事を……』しかし、そこまでで翔は言い淀んでしまった。「まあ、別に2人のことは俺には関係ないけどな。ただ朱莉さんのことなら今後俺は口を出させて貰うぞ。俺にはお前と言う男を紹介してしまった罪があるからな」『琢磨……』受話器越しの翔からため息交じりの声が聞こえた。「何だよ? 何か言い分があるなら聞くぞ?」『いや、特に無いよ。とにかく朱莉さんにはお前から伝えておいてくれないか? 契約婚は続けさせて欲しっいって』「なら、お前からメッセージを送れ」琢磨はぶっきらぼうに言った。『だが、俺から連絡をすると……怖がられるだろう?』「お前……! ふざけるなよ! 彼女……朱莉さんはずっとお前との連
明日香が流産をしてから、早いもので半月が過ぎ、季節は3月になっていた。あの夜、琢磨に説得された翔は、朱莉に詫びのメッセージを送った。自分勝手な思い込みで心無い言葉を朱莉にぶつけてしまった非礼を詫び、明日香が朱莉に感謝していた旨を綴った。そしてこれからも契約婚の関係を続けて貰いたいと書いて朱莉にメッセージを送ったのだった。勿論朱莉からの返信は快諾の意を表す内容であったのは言うまでも無い。翔は前回の非礼の意味も兼ねて、今月からは今迄月々手当として朱莉に振込していた金額を増額させ、朱莉は毎月150万円もの金額を貰うことになったのだった——****—―日曜日 朱莉は琢磨と一緒に買い物に来ていた。「何だか申し訳ないです。翔さんにこんなに沢山お金を振り込んでいただくなんて……」琢磨と並んで歩きながら朱莉は口にするも、琢磨はにこやかに答えた。「いえ、気にしないで下さい。そのお金は明日香さんを助けてくれた副社長のお礼の意が込められているのですから」「明日香さんの……」あの日、明日香が救急車で運ばれた夜のこと。明日香の母子手帳を朱莉が必死に探し出し、救急車の中で激しい腹痛で苦しんでいる明日香の手をギュっと握りしめて励ましの言葉をかけ続けた朱莉。明日香の中で感謝の気持ちが芽生えてきたのか、朱莉に対しての態度が軟化してきたのだ。そして犬よりも小さめで静かな小動物ならあの部屋で別に飼育しても良いと明日香の許可を貰えたのである。そこで朱莉はウサギを飼うことに決めたのだが……。「あの……九条さん。折角のお休みのところ、わざわざペットショップについて来てもらわなくても、私なら一人で大丈夫ですよ?」隣りを歩く琢磨を見上げた。「いえ、いいんですよ。ペットを飼うには色々荷物も必要になりますからね。荷物持ち位させて下さい」しかし朱莉は申し訳ない気持ちで一杯だった。琢磨は翔の第一秘書と言うだけあり、日々多忙な生活を続けている。それなのに貴重な休みを自分の買い物につき合わせることに肩身が狭く感じてしまうのであった。今回、何故琢磨が朱莉の買い物に付き合う流れになったかと言うと、翔から琢磨にペット飼育に関する明日香のメッセージを朱莉に伝えて欲しいと頼まれたのだ。琢磨は朱莉に翔からの伝言を伝えたると朱莉が遠慮がちにそれならウサギを飼ってみたいと申し出てきた。そこで今
琢磨がキャリーバックの中に入れたウサギを抱え、2人で店を出ると朱莉はマロンのことを考えた。(マロンを手放してまだ一月ほどしか経っていないのに……私って薄情な人間なのかな……?)そんな朱莉の横顔を琢磨はじっと見ていたが、明るい声で話しかけてきた。「朱莉さん。このウサギ、紺色をしているからコンて名前はどうかな? あ、でもそれじゃまるで狐みたいだな? 朱莉さんならどんな名前にする? 早く決めないとコンて名前で呼んじゃうぞ?」「ええ? い、今決めるんですか……? う~ん、どうしよう……。あ、それじゃネイビーってどうですか?」「え……ネイビー……?」琢磨は一瞬目を見開き……次に声を上げて笑い出した。「コンだからネイビー? ハハハ……これは面白いな。うん、ネイビーか……素敵な名前じゃ無いかな? それじゃ、今日からこのウサギの名前はネイビーだ」そんな琢磨を見て朱莉は思った。(やっぱり九条さんは相当私に気を遣ってくれているんだ。私を契約婚の相手に選んだから? そんなに気にする事は無いのに。だって九条さんのおかげでもう二度と会う事は無いだろうって諦めていた翔先輩に再会出来たのだから……)朱莉の考えではむしろ琢磨には感謝したい位なのだが、それを伝えれば益々恐縮してしまうのでは無いかと思うと言い出せなかった。その後も2人は他愛無い会話を続けながら、帰路についた——**** 2人で億ションに辿り着いた時、朱莉はドックランで遊ばせている人物を見つけた。 (あ……あの人は……!)すると、相手も朱莉の存在に気が付いたのか振り向いた。「きょ、京極さん……」「あ……朱莉さんじゃないですか! ずっと姿を見かけなかったので心配していたんですよ!」その時、京極は朱莉の隣に立っていた琢磨を見た。「……」琢磨は何故か先程とは打って変わって、険しい顔で京極を見つめている。(え? 九条さん……? どうしたのかな?)朱莉は不思議に思い琢磨の顔を見上げた。一方の京極も何故か挑戦的な目で琢磨を見つめている。先に口火を切ったのは京極の方からだった。「こんにちは、初めまして。貴方ですか? 朱莉さんの夫で、彼女に折角飼った犬を手放す様に言ったのは。貴方は夫のくせに妻を平気で悲しませるんですね?」京極は喧嘩腰に琢磨に話しかけてきた。「夫?」琢磨が小さく口の中で呟くのを朱
「マロンに良かったら会って行きませんか? 今連れて来ますので」京極が朱莉に尋ねた。「で、でもマロンに会えば、あの子はまた私を思い出して離れようとしなくなるんじゃ……」「だったら僕が毎日ドッグランへ連れて来るので、朱莉さんもその時にここへ来ればいいじゃないですか」「え……?」京極の目は真剣だった。「京極さん。何を仰っているのですか? 手放さなければならなかったマロンを引き取って貰えたのは本当に感謝します。そして今もこうしてドッグランへ連れて来てくれて遊ばせてくれているんですよね?」朱莉は遠くでマロンとショコラが遊んでいる姿を見つめる。「はい」「でも、本当はお忙しいんじゃないですか? 私は毎日出かけていますが、マロンを託してから京極さんにお会いするのは今日が初めてなんですよ?」京極は目を伏せて黙って話を聞いている。「京極さんは社長と言う立場で、多忙な方だと思います。毎日ドッグランで遊ばせるのは難しいと思いますよ? 私とマロンを会わせてくれようとするお気持ちには本当に感謝致しますがご迷惑をお掛けすることは出来ません。時々マロンの様子をメッセージで教えていただけるだけで、もう十分ですから」京極は3日に1度はマロンの様子を動画とメッセージで朱莉に報告してくれていたのだった。「朱莉さん。マロンに会わせる為だけの理由じゃ駄目なら……僕の本当の気持ちを言いますよ」「本当の気持ち……?」「はい。貴女のことが心配だから、何か力になれないかと思っているんです。悩みがあるなら相談にも乗りますし、助けが必要なら助けてあげたいと思っているんです。僕でよければ」朱莉は京極を黙って見つめた。何故、この人はそこまで真剣な顔でそんな事を言ってくるのだろう? 朱莉には不思議でならなかった。やはり、同情されるほど今迄自分は暗い顔ばかりしていたのだろうか……?「ここに引っ越してきて、初めて朱莉さんを見かけた時、貴女は泣いていました。その次に見かけた時もやはり貴女は泣いていました。いつもたった1人で……。僕がシングルマザーの家庭で育った話はしていますよね? 母は僕を育てる為にいつも必死で働いていました。僕に心配かけさせない為に、いつも笑顔で過ごしていました。けど夜布団に入っていると、隣の部屋にいる母が声を殺してよく泣いていました。だから僕は母の為にも頑張ってここまできた
「お荷物は全てお部屋に運んで置きました。こちらがお預かりしていた部屋のキーでございます。お受け取り下さい」琢磨は朱莉に部屋の鍵を渡してきた。「は、はい……。どうもありがとうございます……」(一体九条さんは急にどうしたんだろう? さっきまではあんなに親し気な態度を取っていたのに……)「それでは私はこれで失礼いたします。副社長によろしくお伝え下さい。それでは私はこれで失礼させていただきます」「分かりました……」戸惑いながら朱莉は返事をした。(副社長によろしく等、今迄一度も言った事が無かったのに……)琢磨はペコリと頭を下げると足早に去って行った。その後ろ姿は……何故か声をかけにくい雰囲気があった。(後で九条さんにお礼のメッセージをいれておかなくちゃ……)京極は少しの間無言で琢磨の後ろ姿を見ていたが、やがて口を開いた。「彼は朱莉さんの夫の秘書だと言っていましたよね?」「はい、そうです。とてもよくしてくれるんです。親切な方ですよ」「だからですか?」「え? 何のことですか?」「いえ。今日の朱莉さんは今迄に無いくらい明るく見えたので」京極はじっと朱莉を見つめる。「あ、えっと……それは……」(どうしよう……。京極さんにマロンを託したのに、今度は新しく別のペットを飼うことになったからですなんて、とても伝えられない……)その時京極のスマホが鳴り、画面を見た京極の表情が変わった。「……社の者から……。何かあったのか?」京極の呟きを朱莉は聞き逃さなかった。「京極さん。お休みの日に電話がかかってくるなんて、何かあったのかもしれません。すぐに電話に出た方がよろしいですよ、私もこれで失礼しますね」実は朱莉は新しくペットとして連れてきたネイビーの事が気がかりだったのだこの電話は正に京極と話を終わらせる良い口実であった。「え? 朱莉さん?」戸惑う京極に頭を下げると、足早に朱莉は億ションの中へと入って行った。(すみません……京極さん。後でメッセージを入れますから……)エレベーターに乗り込むと、朱莉は琢磨のことを考えていた。(九条さんはどうしてあんな態度を京極さんの前で取かな? もしかして変な誤解を与えないに……?だけど私と九条さんとの間で何がある訳でもないのに。でも、それだけ世間の目を気にしろってことなのかも。それなら私も今後はもっと注意しな
翌日――琢磨と翔は都内にある取引先を訪れており、昼休憩の為にイタリアンレストランへ来ていた。「うん。ここのイタリアンは中々旨いな。今度明日香を連れて来てみよう」翔はボロネーゼのパスタを口に入れると満足そうに頷く。「ああ…」返事をする琢磨は何故か上の空だ。「昨日は明日香の体調が良かったから久しぶりに二人で水族館へ行って来たんだ。やっぱり水族館は良いな。……何と言うか癒される気がする」「そうだな……」琢磨は溜息をつきながら、ポルチーニパスタを口に運んで無言で食べている。「……どうにも調子が狂うな……。仕事上でミスは無かったが一体どうしたんだ? 琢磨、何だか元気が無いように見えるぞ?」翔は琢磨の顔をじっと見つめた。「いや……別に俺は至って普通だ」「嘘つけ。今だって上の空で食事をしているのは分かってるんだぞ? 一体何があったんだ? いつものお前らしくも無い。何か悩みでもあるなら俺に相談してみろよ? 考えてみれば最近はずっとお前が俺の相談に乗っていてくれたからな」食事を終えた翔はフォークを置いた。「……別に何も悩みなんかないさ」器用にパスタをフォークに巻き付ける琢磨。「そうか……? それで、さっきの水族館の話なんだが、明日香もすっかり熱帯魚が気に入ったらしく、帰宅してからネットで熱帯魚の事を色々調べていたんだ。朱莉さんに触発されたのかな? あの明日香がペットを考えているなんて信じられないよ」翔の口から朱莉の名前が出てくくると、そこで琢磨は初めてピクリと反応した。「朱莉さん……? 朱莉さんがどうしたって言うんだ……?」「お前……やっぱり俺の話、上の空で聞いていたな? だから明日香がペットに熱帯魚を探し始めているんだ。それで朱莉さんの影響を受けたんじゃないか? って話を……。ん? そう言えば朱莉さんは何か次のペットを考えいているのかな?」「……珍しいよな。お前が自分から朱莉さんの話をするなんて。ひょっとして……お前も……」そこで琢磨は口を閉ざした。(え……? 今、俺は何を言おうとしていたんだ……?)「ん? 何だよ、お前もって?」一方の翔は琢磨が突然口を閉ざしてしまったので不思議そうに琢磨を見る。「いや、何でも無い」琢磨は最後の食事を終えると、コーヒーをグイッと飲み込んだ。「今日は15時から役員会議があるだろう? 早めに社に
――17時「それじゃ、お母さん。また来るね」面会時間が終わり、朱莉は母に声をかけて席を立つと呼び止められた。「あ、あのね……朱莉。実は今度の週末、1日だけ外泊許可が取れたのよ」「え? 本当なの!? お母さん!」朱莉は顔をほころばせて母の顔を見た。「え、ええ……。それで朱莉、貴女の住むお部屋に泊らせて貰っても大丈夫かしら?」「!」母の言葉に朱莉は一瞬息が止まりそうになったが、何とか平常心を保ちながら返事をした。「うん、勿論大丈夫に決まってるでしょう?」朱莉はニコリと笑顔を見せると母に手を振って病室を後にした——****(どうしよう……)朱莉は暗い気持ちで町を歩いていた。母が外泊することが出来るまでに体調が回復したと言うことは朱莉にとって、とても喜ばことことであった。だが、それが朱莉の住む部屋を母が訪れるなると話は全くの別物になってくる。母があの自宅を見たら、朱莉が1人であの部屋に住んでいると言うことがすぐにばれてしまう。かと言って翔にその日だけでも朱莉の自宅に来てもらえないかと頼めるはずも無い。……どうしよう? いっそのこと母に事実を話してしまおうか?実は翔との結婚は書類上だけで、実際はただの契約婚だと言うことを。だけど……。(駄目……本当のことなんかお母さんに話せるはずが無い。きっと心配するに決まっているし、そのせいでまた具合が悪くなってしまうかもしれない。折角体調が良くなってきたっていうのに……。そうだ、いっそのこと翔先輩は突然海外出張で不在だって嘘をついてみる……?)だが、あの部屋はどう見ても翔の存在感がまるで無い。一応食器類は翔の分として用意はしてあるし、クローゼットにも服は入っている。だけど……やはりどんなに取り繕ってみても所詮女の1人暮らしのイメージが拭い去れないのは事実であった。「どうしよう……」気付けばいつの間にか朱莉は自分が住む億ションへと辿り着いていた。そして改めてタワー億ションを見上げる。「馬鹿だな……私……。結局私自身もここに仮住まいさせて貰っている身分だって言うのに……」暗い気持ちでエレベーターに乗り込むと、今後の事を考えた。どうしよう。やはり母には何か言い訳を考えて、ここには連れて来ない方がいいかもしれない。それならどうする? いっそ……何処か都心の高級ホテルを借りて、そこに母と二人で泊ま
その頃――まだ翔と琢磨はオフィスに残って残務処理をしていた。「参ったな……役員会議で新たな問題が出てくるとは…‥」翔は頭を抱えながら資料を見直している。「仕方がないさ。常に社会は動いているんだ。こういう時もあるだろう? それより翔。お前、そろそろ帰らなくてもいいのか? 明日香ちゃんを1人にしておいて大丈夫なのか?」琢磨は目を通していた資料から視線を翔に移した。「ああ、今夜は大丈夫なんだ。家政婦さんが朝まで泊まり込んでくれるからな」明日香が流産をしてから翔は家政婦協会に依頼し、翔の帰りが遅くなりそうなときは泊まり込みで家政婦を派遣してもらえるように頼んでおいたのだ。「ふ~ん……なら安心だな」その時、突然琢磨のスマホが着信を知らせた。琢磨はスマホを手に取るとドキリとした。「朱莉さん……」今までは普通に朱莉からのメッセージを受け取っていたのに、今夜に限って何故心臓が一瞬跳ね上がるかのように感じる。琢磨は自分の気持ちが良く分からなくなっていた。「朱莉さんからなのか? 何て言ってきてるんだ? と言うか……そうだ、琢磨。最近明日香も以前に比べると大分朱莉さんに対して気持ちが軟化してきてるんだ。今ならひょっとすると朱莉さんから俺に直接メッセージが届いても、もう何も言わないかもしれない。だから朱莉さんに伝えてくれないか? これからは俺に直接メッセージを送ってもらって構わないって」しかし、琢磨は翔の言葉に何故か苛立ちを覚えた。(何を言ってるんだ? 今まで散々明日香ちゃんに気を使って朱莉さんとの直接のやり取りを拒否してきたくせにここにきて突然そんなことを言い出すなんて……)「いや、いい。もしかするとこのメッセージは俺自身に用があってよこしているかもしれないだろう?」「ふ~ん……? 分かったよ。お前に任せる」そして翔がPC画面を見つめている時、琢磨が髪をかき上げながら苛立ちの声を上げた。「くそっ!」「どうしたんだ? 琢磨。朱莉さんのメッセージでそんな風に苛立つなんて一体何があったんだ?」翔が声をかけると、琢磨がため息をついた。「朱莉さんのお母さんが今週病院から外泊許可を貰って朱莉さん宅へ来たいと言ってるらしいんだ。だけど……。お前、普段からあの自宅には住んでいないだろう? 朱莉さん曰く、お前の生活感が全く無い部屋だと言っている。それにお前だ
17時――「ふう~疲れた……」朱莉は億ションへ帰って来ると、部屋の窓を開けて換気をするとソファの上に座った。「今日は疲れちゃったからご飯作るのはやめよう。東京へ戻って来た記念に思いきってどこかに食事に行ってみようかな……?」朱莉の本心を言えば、航に連絡を入れて2人で何処かで待ち合わせをしたかった。一緒にお店に入り、そこでお土産のTシャツを手渡して、食事が出来ればと願っていた。だが……突然航は東京へ戻り、そこからは一切連絡が来なくなってしまったのだ。航の性格からみて、それはとても考えられないことだった。(航君は、ひょっとすると京極さんに私との連絡を絶つように言われていたのかもしれない……)何故京極がそこまでのことをするのか、朱莉には見当がつかなかった。航に会えないことを思うと悲しい気持ちが込み上げてくる。それだけ朱莉にとって、航は大きな存在だったのだ。だが朱莉は航にも京極にも理由を尋ねる勇気が無かった。暫くソファに寄りかかり、ぼ~っと天井を見上げていると突然朱莉の個人用スマホの電話が鳴り始めた。(まさか、京極さん!?)慌ててスマホを取り出すと、それは母からの電話だった。「はい、もしもし」『ああ、朱莉。今日は私から電話を入れてみようかと思ったのだけど……今忙しいの?』受話器からは意外と元気そうな母の声が聞こえてきた。「ううん、そんな事無いよ。あ、そうだお母さん。実は今まで黙っていたけど私今日東京に戻って来たんだよ?」『え!? そうだったの!? びっくりだわ……。どうして今まで今日東京へ戻ることを教えてくれなかったの?』母はやはり朱莉が考えていたのと同じ事を尋ねてきた。「うん、ごめんなさい。はっきりいつ頃東京へ戻るか日程が決まっていなかったから言えなかったの。それでね、明日お見舞いに行こうと思ってるの。沖縄で綺麗な琉球ガラスの花瓶を買ってきたから、明日持ってお見舞いに行くね?」『ありがとう、朱莉。フフフ……久しぶりに貴女に会えると思うと嬉しいわ』「うん。お母さん。私も楽しみにしてるね。それじゃまた明日」朱莉は電話を切ると、部屋が肌寒くなっていたことに気づいて部屋の窓を閉めた。いつの間にか部屋の中はすっかり薄暗くなっていたので、遮光カーテンを閉めると部屋の電気をつけた。 信じられないくらいの広すぎる部屋。今まではこの部屋で
11月1日午前8時―― 今日は朱莉が東京へ戻る日である。当初の予定では明日香達が日本へ戻って来る日に合わせて東京へ戻るはずだった。しかし、新生児を迎えるにあたり、沖縄から発送したベビー用品を受け取って部屋を用意しておきたいと朱莉が姫宮にお願いをすると、すぐに姫宮は朱莉の提案を聞き入れてくれた。(きっと翔先輩にお願いしても断られていたかも。姫宮さんにお願いしておいて良かった)ただし、翔からは億ションに戻った後は子供を迎えるまでは極力目立たない行動を取るように念を押されている。 朱莉が梱包して発送したベビー用品はもう全て六本木に発送済みだ。今は必要としない朱莉の荷物も全てまとめて発送した。このマンションには家具・家電も含めて食器類も全て備え付けだったので、朱莉自身の発送した荷物は微々たるものであった。所有する車は既に数日前にフェリーで東京の方へ輸送手続きを済ませてある。明日には運転代行業の業者が億ションまで運んでくることになっていた。 朱莉が乗る飛行機の便は11時。那覇空港へ行くにあたり、モノレールを利用する予定であった。「早めに那覇空港へ行ってお土産屋さんでも見ていようかな……」朱莉は呟くと、部屋の掃除を始めた。今までお世話になって来た部屋なので念入りに掃除を始めた。夢中になって掃除をし、気が付いた時には9時半になっていた。「大変。もうこんな時間だ。早く出かける準備をしなくちゃ」着がえをし、簡単にメイクをすると最後に忘れ物が無いか部屋の中をざっと確認し、足元にいたネイビーを抱きあげた。「ネイビー、いよいよ東京へ帰るよ」そして暖かなネイビーの身体に顔を寄せた。 キャリーバックにネイビーを入れ、ショルダーバッグにキャリーケースを持って朱莉はマンションを出た。そして自分が今まで住んでいた部屋に向かってお辞儀をした。(今までお世話になりました)心の中で感謝の意を述べると、朱莉は那覇空港へ向かった——**** 朱莉は那覇空港へ向かるモノレールの中で物思いにふけっていた。実は一つ気がかりなことがあったのだ。それは京極に黙って沖縄を去ること。本来であれば京極は朱莉を追って沖縄へやって来たようなものなので、本日東京へ戻ることを告げるべきなのかもしれない。しかし、何故突然戻ることになったのか尋ねられた場合、朱莉は答えることが出来ない
1人の男が朱莉の住むマンションの前に立っていた。その男はぎらつく目で朱莉の住む部屋のベランダをじっと見上げている。その時――「……こんな所で一体何をしているんだ?」京極が男に声をかけた。「い、いや……お、俺は……」男は狼狽したように後ず去ると、背後から体格の良い背広姿の男が突然現れて男を羽交い絞めにした。捕らえられた男を京極は冷たい瞳で睨み付けた。「まだコソコソと嗅ぎまわる奴らが残っていたのか……」それは背筋がゾッとするような声だった。「は……離せ! うっ!」暴れる男を押さえつけている男性は男の腕を捻り上げた。京極は身動きが出来ない男に近付くと、肩から下げた鞄を取り上げて漁り始めた。中からデジカメを発見すると蓋を開けてメモリーカードを引き抜いた。「よ、よせ! 触るな! うっ!」さらに腕をねじ上げられて再び男は苦し気に呻いた。そんな男を京極は冷たい目で見つめると、次に名刺を探し出した。「やはりゴシップ誌に売りつけるフリーの三流記者か……。どこの誰に教えられたのかは知らないが余計な手出しはするな。もし下手な真似をするなら二度とこの業界で生きていけない様にしてやるぞ?」それは背筋がゾッとする程冷たく、恐ろしい声だった。「だ、誰なんだよ……お前は……」「仮にもお前のような奴がこの業界で働いていれば名前くらいは聞いたことがあるだろう? 俺の名前は京極だ」「京極……ま、まさかあの京極正人か……!?」途端に男の顔は青ざめる。「そうか……やはり俺のことは知ってるんだな? 分かったら、二度と姿を見せるな。さもないと……」「ヒイッ! わ、分かった! もう二度とこんな真似はしない! た、頼む! 見逃してくれ!」「……どうしますか?」男の腕を締め上げていた男性は京極に尋ねた。「……離してやれ」男性が手を離すと、男はその場を逃げるように走り去って行った。その姿を見届けると男性は京極に尋ねた。「いつまでこんなことを続けるつもりですか?」「勿論彼女の契約婚が終了するまでだ」「しかし、それでは……」「今はまだ動けない。だが、最悪の場合は強引にこの契約婚を終わらせるように仕向けるつもりだ」その時、京極のスマホが鳴った。京極はその着信相手を見ると、一瞬目を見開き……電話に出た。「ああ……。教えてくれてありがとう。助かったよ……うん。早速
10月22日—— その日は突然訪れた。朱莉が洗濯物を干し終わって、部屋の中へ入ってきた時の事。翔との連絡用のスマホが部屋の中で鳴り響いていた。(まさか明日香さんが!?)すると着信相手は姫宮からであった。すぐにスマホをタップすると電話に出た。「はい、もしもし」『朱莉さん、明日香さんが男の子を先程出産されました』「え? う、生まれたんですね!?」『はい、かなりの難産にはなりましたが、無事に出産することが出来ました。私は今副社長とアメリカにいます。副社長は日本に戻るのは10日後になりますが、私は一時的に日本へ帰国する予定です。朱莉さんはもう引っ越しの準備を始めておいて下さい。朱莉さんが今現在お住いの賃貸マンションの解約手続きは私が帰国後行いますので、そのままにしておいていただいて大丈夫です。それではまた連絡いたします』姫宮からの電話はそこで切れた。(明日香さんがついに赤ちゃんを出産……そしてこれから私の子育てが始まるんだ……。それにしても難産って……明日香さん大丈夫なのかな……?)朱莉は明日香のことが心配になった。ただでさえ、情緒不安定で一時は薬を服用していたと聞く。回復の兆しがあり、薬をやめてから明日香は翔との子供を妊娠したが、その後は翔と姫宮の不倫疑惑が浮上。結局その件は航の調査で2人の間に不倫関係は認めらず、誤解だったことが分かったが明日香は難産で苦しんだ……。「明日香さん、元気な姿で日本に赤ちゃんと一緒に戻ってきて下さい」朱莉はそっと祈った。——その後朱莉は梱包用品を買い集めて来るとマンションへと戻り、買い集めていたベビー用品の梱包を始めた。一つ一つ手に取って荷造りを始めていると、自然と琢磨や航のことが思い出されてきた。「あ……このベビードレスは確か九条さんと一緒に買いに行ったんだっけ。そしてこれは航君と一緒に買った哺乳瓶だ……」朱莉の胸に懐かしさが込み上げてくる。(あの時は誰かが側にいてくれたから寂しく無かったけど……)だが、いつだって朱莉が一番傍にいて欲しいと願っていた翔の姿はそこには無い。翔と2人で過ごした日々は片手で数えるほどしか無かった。むしろ、冷たい視線や言葉を投げつけらる数の方が多かったのだ。(でも……翔先輩。私が明日香さんの赤ちゃんを育てるようになれば少しは私のこと、少しは意識してくれるかな……?)一度
観覧車を降りた後は、京極の誘いでカフェに入った。「朱莉さん。食事は済ませたのですか?」「はい。簡単にですが、サラダパスタを作って食べました」「そうですか、実は僕はまだ食事を済ませていないんです。すみませんがここで食事をとらせていただいても大丈夫ですか?」「そんな、私のこと等気にせず、お好きな物を召し上がって下さい」(まさか京極さんが食事を済ませていなかったなんて……)「ありがとうございます」京極はニコリと笑うと、クラブハウスサンドセットを注文し、朱莉はアイスキャラメルマキアートを注文した。注文を終えると京極が尋ねてきた。「朱莉さんは料理が好きなんですか?」「そうですね。嫌いではありません。好き? と聞かれても微妙なところなのですが」「微妙? 何故ですか?」「1人暮らしが長かったせいか料理を作って食べても、なんだか空しい感じがして。でも誰かの為に作る料理は好きですよ?」「そうですか……それなら航君と暮していた間は……」京極はそこまで言うと言葉を切った。「京極さん? どうしましたか?」「いえ。何でもありません」 その後、2人の前に注文したメニューが届き、京極はクラブハウスサンドセットを食べ、朱莉はアイスキャラメルマキアートを飲みながら、マロンやネイビーの会話を重ねた——**** 帰りの車の中、京極が朱莉に礼を述べてきた。「朱莉さん、今夜は突然の誘いだったのにお付き合いいただいて本当にありがとうございました」「いえ。そんなお礼を言われる程ではありませんから」「ですがこの先多分朱莉さんが自由に行動できる時間は……当分先になるでしょうからね」何処か意味深な言い方をされて、朱莉は京極を見た。「え……? 今のは一体どういう意味ですか?」「別に、言葉通りの意味ですよ。今でも貴女は自分の時間を犠牲にしているのに、これからはより一層自分の時間を犠牲にしなければならなくなるのだから」京極はハンドルを握りながら、真っすぐ前を向いている。(え……? 京極さんは一体何を言おうとしているの?)朱莉は京極の言葉の続きを聞くのが怖かった。出来ればもうこれ以上この話はしないで貰いたいと思った。「京極さん、私は……」たまらず言いかけた時、京極が口を開いた。「まあ。それを言えば……僕も人のことは言えませんけどね」「え?」「来月には東京へ戻
朱莉が航のことを思い出していると、運転していた京極が話しかけてきた。「朱莉さん、何か考えごとですか?」「いえ。そんなことはありません」朱莉は慌てて返事をする。「ひょっとすると……安西君のことですか?」「え? 何故そのことを……?」いきなり確信を突かれて朱莉は驚いた。するとその様子を見た京極が静かに笑い出す。「ハハハ……。やっぱり朱莉さんは素直で分かりやすい女性ですね。すぐに思っていることが顔に出てしまう」「そ、そんなに私って分かりやすいですか?」「ええ。そうですね、とても分かりやすいです。それで朱莉さんにとって彼はどんな存在だったのですか? よろしければ教えてください」京極の横顔は真剣だった。「航君は私にとって……家族みたいな人でした……」朱莉は考えながら言葉を紡ぐ。「家族……? 家族と言っても色々ありますけど? 例えば親子だったり、姉弟だったり……もしくは夫婦だったり……」最期の言葉は何処か思わせぶりな話し方に朱莉は感じられたが、自分の気持ちを素直に答えた。「航君は、私にとって大切な弟のような存在でした」するとそれを聞いた京極は苦笑した。「弟ですか……それを知ったら彼はどんな気持ちになるでしょうね?」「航君にはもうその話はしていますけど?」朱莉の言葉に京極は驚いた様子を見せた。「そうなのですか? でも安西君は本当にいい青年だと思いますよ。多少口が悪いのが玉に傷ですが、正義感の溢れる素晴らしい若者だと思います。社員に雇うなら彼のような青年がいいですね」朱莉はその話をじっと聞いていた。(そうか……京極さんは航君のことを高く評価していたんだ……)その後、2人は車内で美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジに着くまでの間、航の話ばかりすることになった——****「どうですか? 朱莉さん。夜のアメリカンビレッジは?」ライトアップされた街を2人で並んで歩きながら京極が尋ねてきた。「はい、夜は又雰囲気が変わってすごく素敵な場所ですね」「ええ。本当にオフィスから見えるここの夜景は最高ですよ。社員達も皆喜んでいます。お陰で残業する社員が増えてしまいましたよ」「ええ? そうなんですか?」「そうですよ。あ、朱莉さん。観覧車乗り場に着きましたよ?」2人は夜の観覧車に乗り込んだ。観覧車から見下ろす景色は最高だった。ムードたっ
その日の夜のことだった。朱莉の個人用スマホに突然電話がかかって来た。相手は京極からであった。(え? 京極さん……? いつもならメールをしてくるのに、電話なんて珍しいな……)正直に言えば、未だに京極の事は姫宮の件や航の件で朱莉はわだかまりを持っている。出来れば電話では無く、メールでやり取りをしたいところだが、かかってきた以上は出ないわけにはいかない。「はい、もしもし」『こんばんは、朱莉さん。今何をしていたのですか?』「え? い、今ですか? ネットの動画を観ていましたが?」朱莉が観ていた動画がは新生児のお世話の仕方について分かり易く説明している動画であった。『そうですか、ではさほど忙しくないってことですよね?』「え、ええ……まあそういうことになるかもしれませんが……?」一体何を言い出すのかと、ドキドキしながら返事をする。『朱莉さん。これから一緒にドライブにでも行きませんか?』「え? ド、ドライブですか?」京極の突然の申し出に朱莉はうろたえてしまった。今まで一度も夜のドライブの誘いを受けたことが無かったからだ。(京極さん……何故突然……?)しかし、他ならぬ京極の頼みだ。断るわけにはいかない。「わ、分かりました。ではどうすればよろしいですか?」『今から30分くらいでそちらに行けると思いますので、マンションのエントランスの前で待っていて頂けますか?』「はい。分かりました」『それではまた後程』用件だけ告げると京極は電話を切った。朱莉は溜息をつくと思った。(本当は何か大切な話が合って、私をドライブに誘ったのかな……?)****30分後――朱莉がエントランスの前に行くと、そこにはもう京極の姿があった。「すみません、お待たせしてしまって」「いえ、僕もつい先ほど着いたばかりなんです。だから気にしないで下さい。さ、では朱莉さん。乗って下さい」京極は助手席のドアを開けるた。「は、はい。失礼します」朱莉が乗り込むと京極はすぐにドアを閉め、自分も運転席に座る。「朱莉さん、夜に出かけたことはありますか?」「いいえ、滅多にありません」「では美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジに行きましょう。夜はそれはとても美しい景色に変わりますよ? 一緒に観覧車に乗りましょう」「観覧車……」その時、朱莉は航のことを思い出した。航は観覧車に乗
数か月の時が流れ、季節は10月になっていた。カレンダーの3週目には赤いラインが引かれている。そのカレンダーを見ながら朱莉は呟いた。「予定通りなら来週明日香さんの赤ちゃんが生まれてくるのね…」まだまだこの季節、沖縄の日中は暑さが残るが、夏の空とは比べ、少し空が高くなっていた。琢磨とも航とも音信不通状態が続いてはいたが、今は寂しさを感じる余裕が無くなってきていた。翔からは頻繁に連絡が届くようになり、出産後のスケジュールの取り決めが色々行われた。一応予定では出産後10日間はアメリカで過ごし、その後日本に戻って来る事になる。朱莉はその際、成田空港まで迎えに行き、六本木のマンションへと明日香の子供と一緒に戻る予定だ。「お母さん……」 朱莉は結局母には何も伝えられないまま、ズルズルここまできてしまったことに心を痛めていた。どうすれば良いのか分からず、誰にも相談せずにここまで来てしまったことを激しく後悔している。そして朱莉が出した結論は……『母に黙っていること』だった。あれから少し取り決めが変更になり、朱莉と翔の婚姻期間は子供が3歳になった月に離婚が決定している。(明日香さんの子供が3歳になったら今までお世話してきた子供とお別れ。そして翔先輩とも無関係に……)3年後を思うだけで、朱莉は切ない気持ちになってくるが、これは始めから決めらていたこと。今更覆す事は出来ないのだ。現在朱莉は通信教育の勉強と、新生児の育て方についてネットや本で勉強している真っ最中だった。生真面目な朱莉はネット通販で沐浴の練習もできる赤ちゃん人形を購入し、沐浴の練習や抱き方の練習をしていたのだ。(本当は助産師さん達にお世話の仕方を習いに行きたいところなんだけど……)だが、自分で産んだ子供ではないので、助産師さんに頼む事は不可能。(せめて私にもっと友人がいたらな……誰かしら結婚して赤ちゃんを産んでる人がいて、教えて貰う事ができたかもしれないのに……)しかし、そんなことを言っても始まらない。そして今日も朱莉は本やネット動画などを駆使し、申請時のお世話の仕方を勉強するのであった――**** 東京——六本木のオフィスにて「翔さん、病院から連絡が入っております。まだ出産の兆候は見られないとのことですので、予定通り来週アメリカに行けば恐らく大丈夫でしょう」姫宮が書類を翔に手
「ただいま……」玄関を開け、朱莉は誰もいないマンションに帰って来た。日は大分傾き、部屋の中が茜色に代わっている。朱莉はだれも使う人がいなくなった、航が使用していた部屋の扉を開けた。綺麗に片付けられた部屋は、恐らく航が帰り際に掃除をしていったのだろう。航がいなくなり、朱莉の胸の中にはポカリと大きな穴が空いてしまったように感じられた。しんと静まり返る部屋の中では時折、ネイビーがゲージの中で遊んでいる気配が聞こえてくる。目を閉じると「朱莉」と航の声が聞こえてくるような気がする。朱莉の側にいた琢磨は突然音信不通になってしまい、航も沖縄を去って行ってしまった。朱莉が好きな翔はあの冷たいメール以来、連絡が途絶えてしまっている。肝心の京極は……朱莉の側にいるけれども心が読めず、一番近くにいるはずなのに何故か一番遠くの存在に感じてしまう。「航君……。もう少し……側にいて欲しかったな……」朱莉はすすり泣きながら、いつまでも部屋に居続けた——**** 季節はいつの間にか7月へと変わっていた。夏休みに入る前でありながら、沖縄には多くの観光客が訪れ、人々でどこも溢れかえっていた。京極の方も沖縄のオフィスが開設されたので、今は日々忙しく飛び回っている様だった。定期的にメッセージは送られてきたりはするが、あの日以来朱莉は京極とは会ってはいなかった。航が去って行った当初の朱莉はまるで半分抜け殻のような状態になってはいたが、徐々に航のいない生活が慣れて、ようやく今迄通りの日常に戻りつつあった。 そして今、朱莉は国際通りの雑貨店へ買い物に来ていた。「どんな絵葉書がいいかな~」今日は母に手紙を書く為に、ポスカードを買いに来ていたのだ。「あ、これなんかいいかも」朱莉が手に取った絵葉書は沖縄の離島を写したポストカードだった。美しいエメラルドグリーンの海のポストカードはどれも素晴らしく、特に気に入った島は『久米島』にある無人島『はての浜』であった。白い砂浜が細長く続いている航空写真はまるでこの世の物とは思えないほど素晴らしく思えた。「素敵な場所……」朱莉はそこに行ってみたくなった。 その夜――朱莉はネイビーを膝に抱き、ネットで『久米島』について調べていた。「へえ~飛行機で沖縄本島から30分位で行けちゃうんだ……。意外と近い島だったんだ……。行ってみたいけど、でも